WEB版に寄せて

千葉大学のデザイン教育──工業意匠学科から未来へ

森 仁史

 現在の千葉大学工学部デザイン学科の直接の前身は工業意匠学科と名付けられ、1951年4月に設置されている。同学部は1949年全国に新制大学が生まれたときには、千葉大学工芸学部であったのだが、これには1921年創設された東京高等工芸学校という前身校があった。同校は1945年に松戸に移転していたのだが、当初は単独のデザイン大学を目指した。この中に山口正城がいた。今日の用語法とは異なり、「工芸」は1960年代までほぼデザインと同義語だった。戦前には、日本政府が期待する輸出振興や固有色を発揮させるデザイン指導者がこの学校で養成され、全国各地の工業試験場、実業学校で手腕をふるっていたのだった。
 これを機能主義デザインへ大きく方向転換させたのが小池新二(その後、九州芸術工科大学初代学長)であり、その遺産は今「小池文庫」として千葉大学附属図書館に所蔵されている。小池がC.イームズも学んだクランブルック・アカデミーから1956年スカウトしたのが吉岡道隆であった。  彼らのもとから、日本の戦後デザインを担う第一世代が育っていった。同時期にデザイン教育が行われていたのは東京教育大学教育学部芸術学科(1949)のみで、他の東京芸術大学工芸科工芸計画専攻(1951)、多摩美術大学図案科(1952)、武蔵野美術大学産業デザイン科(1962)と較べてはるかに組織的で、やがて来るインダストリアル・デザインの時代趨勢に先駆けていたことは間違いない。
 実際に、小池が企図したように、この学科からは工業デザインの分野に有能な才能を輩出している。 その後の興隆は本作品集が雄弁に物語っている。また、他の美術大学がグラフィックを主要な分野とすることとも対照的であった。前者は日本のものづくりの能力の開発に連なる仕事であり、同時にそれをグローバルな基準で発揮させるという隘路をくぐり抜ける困難な企てである。他方、後者は商業宣伝が主体であるために、その評価は目前の商業的成功に左右されやすく、息の長いデザイン力を培いにくい土壌を産んでいる。
 本作品集のページを追えば、黒木靖夫(1957卒)らによるウォークマン(1979)のように、一製品としての成功よりも、それが形づくるライフスタイルにまで影響を及ぼすデザインこそが戦後の工業意匠学科が目指してきたものだったことが分かる。そのための基礎や人材育成への環境がこの大学に醸成されたことは誇ってよいことだろう。アジア諸国の追い上げに追われる現在にこそ、かつての日本デザインの成功の基に今一度思いを致すべきだと思わないではいられない。

(金沢美術工芸大学 柳宗理記念デザイン研究所所長)

(C) 2006 Chiba University. All Rights Reserved.